「抱きしめる腕 D」

 

 

拭いきれなかった水分を、波打つ髪の先から滴らせながら、ロックオンはバスルームから戻ってきた。
部屋には空調の音と、それよりも小さなアレルヤの寝息だけがして。
男二人が横たわるには窮屈な寝台に、先刻と同じく、自分に背を向けた姿のまま、眠るアレルヤがいる。
汗と体液で濡れた身体は、もう乾いたろうか。
むき出しの素肌に触れようと伸ばした手は、暫くその場に留まるが、宙だけを切って戻された。
アレルヤの肩の上までシーツを引き上げると、寝台の端にロックオンは静かに腰を下ろす。
「やはり、お前は冷たい男だ」
背後から聞こえてきた固い声に、ロックオンは溜息と共に苦笑する。
ハレルヤだ。
「・・・アレルヤは?」
「眠っている。だから出てきた。―――せめてこいつが眼を覚ますまで、横に眠っていてやったらどうだ。潔癖症でもあるまいに」
ハレルヤの口から飛び出した科白と本人の、激しいギャップに苦笑が収まらない。
まるで、アレルヤが小さな子供のように聞こえる。
もしくは、自分とアレルヤが、愛を囁きあう恋人同士の関係であるように。
以前の自分なら、軽く切り返せただろうに、気の利いた言葉のひとつも何故か出てこない。
そのかわり苦笑が零れて、耳ざとく聞きつけたハレルヤに、
「笑ってんじゃねえよ」
と、背中を叩かれた。
『らしくない』
決して汚れた身体が不快だったわけでも、ましてアレルヤが疎ましかったわけでもない。
なのに。
隣に居るのが落ち着かなくなり、訳も分からぬままバスルームに逃げ込んだ。
「泣いてたぞ、アレルヤ」
「お前が泣かしたんだろうが。エロジジイ」
「だったらいいんだけどな・・・分かってるんだろう?」
互いに背を向けたままだから、表情は読めない。
けれど、多分ハレルヤは、渋い顔をしているのだろうと思う。

 

アレルヤは泣いていた。
男の流す涙など、気持ち悪いただの水だと思っていたのに。
唇で受け、口に含んだのは、甘くて苦い雫だった。
アレルヤの涙が、快感から生じたモノでないことに気付かぬほど、ロックオンは鈍感ではない。
行為の続きを望んだのは、泣きたかったからだ。
切欠を欲していただけで、自分を求めたからではない。
自分でなくとも・・・。
『・・・もしかして、落ち込んでるのか、俺は』
落ち込む理由など、今の所思い当たるものはひとつしかない。
『おいおい。冗談だろ・・』
軽い衝撃に、ロックオンはこめかみを押さえる。
恋情など、自分と彼の間には存在しないはず。
少なくとも、自分にはなかった。
―――オンナ相手にするより、リスクもねえ手間も省ける―――
ハレルヤの言葉は、間違いではないのだ。
「別に、酷いことを言われたわけじゃあない。本当のことだ」
随分間をおいて発したハレルヤの声を、ロックオンはうっかり聞き逃す所だった。
「お前なんかより、絶対俺の方が、あいつを大事にしてる」
「・・・否定しません」
「当ったり前だ」
でも。
いったん言葉を区切ったハレルヤの声が、擦れて割れる。
声が擦れるほど啼かせて、泣かせて。
なのに、その喉を使い、今言葉を発しているのは、違う人格。
「どれだけあいつを想っていても、俺は、あいつを抱きしめてやれない」
「―――――」
思わず、ロックオンは上体を捻った。
ハレルヤは相変わらず、自分に背をむけたまま、シーツに包まり横になっている。
ほんの数十分前まで熱を共有し、抱き合った身体。
鍛えられた肉は、オンナと違う柔らかさと滑らかさで自分を受けとめた。
「どんな時も、一緒に居てやれるけれど、あいつの身体を抱きしめることは、出来ない」

 

「お前が人肌恋しさに、アレルヤを抱くよう、あいつも他人のぬくもりが欲しい時があるんだってことを、俺は失念していた」
「・・・ハレルヤ」
「俺はあいつさえいれば、身体に触れられなくとも構わない。何時だって傍にいるのだから。・・あいつも俺と同じだと思い込んでいた」
アレルヤも、同じだと思った。
一番大切なのは、ハレルヤで、それが揺らぐことはないだろう。
でも。
「だから、俺が勝手にショックを受けて落ち込んでただけで。ったく、あいつのせいでもなんでもねえのに、めそめそ泣きやがって・・・」
アレルヤは、はっきり『思い』を『言葉』にしたわけじゃあない。と、ハレルヤは言った。
「あいつには、そんなことは出来ない」
それでも、分かってしまったのだ。
彼らは同じ身体に宿るのだから。
伝わればハレルヤを傷つけると、身体の奥に、心の奥に隠していた『言葉』を。

―――彼は、僕を抱きしめてくれる。僕の身体を、長い腕で抱きしめてくれる―――

「あいつは怖がりで、小心者で。何時だって寂しいんだ。だから、嘘でもいいから、こんな時ぐらいもっと優しくしてやってくれ。・・・俺も、邪魔しないよう最大限努力する」
お前のことは大嫌だけれど、アレルヤが、それを望むのなら。
そう締めくくり、ハレルヤは再び沈黙する。
「・・・・・」
ああ。
何てことだと、ロックオンは天を見上げ――そこには星空も晴天もないが――自身に絶望する。
眼の前の『彼』を、抱きしめたくなってしまった。
眠るアレルヤも、自分を大嫌いだと言い切るハレルヤも。
どちらも、いとしいと、思ってしまったのだ。

自分から一線を引いて、アレルヤに接していたくせに。
突然、自分から甘くて苦い恋の中に落ちてしまったなんて。
『みっともなくて、誰にも言えやしないぜ』