19. 透き通る指先

 

 

 

月のない夜だった。
副官をなくしてから、すっかり雨乾堂に引きこもっている友人の元へ、何時もの如く何の挨拶もいれず、京楽は酒を土産に向かった。
彼の元に通う女はまず居ないから、その点は気を使わずにすむ。
「浮竹、邪魔するよ」
開け放たれていた戸の、簾の越しに声をかけると「京楽?」と少し驚いた声がして、
「入るなら早く入ってくれ」
と、何故か急かすので、どうしたのかと思いながら京楽は堂に足を踏み入れた。
堂の中は普段よりも薄暗く、浮竹は文机に向かっている。
「こっちに。俺の後ろのこの辺りに座っていてくれ」
「なんで?」
少々変わった場所を指差され、不思議に思いながらも京楽は素直にその場所に腰を下ろした。
「いいから。……すぐ済む」
痩せた背中を見ながら、京楽は持参した杯で酒を先に呑んだ。書き物をしている風でもなく、浮竹はただ、そこに座っているだけ。
元から不思議なところのある人だったけれど、、一層不思議さが増したのだろうか。副官の死が切欠なら、そのままにしておくのはどうだろう。
その時、ふわり、と簾が揺れた。
浮竹が横に向き直った。
彼の視線を追って見上げて、京楽は杯を落とすほど、驚いた。
そこには浮竹がなくした彼――副官の海燕の姿があったからだ。
言葉が出ない京楽を蚊帳の外に、海燕は笑いながら浮竹の前に正座をすると、くちびるを動かした。
声は――聞こえてこない。
そして良く見ると、海燕の姿は薄くかすんでみえた。
楽しそうに話す海燕を、浮竹は静かな微笑みをたたえて見つめていた。その横顔に落ちる影が彼を限りなく寂しく見せた。こんなにも儚い人だっただろうか。
「――これって、何?」
静かに問い掛ける。
「さあ……何だろうな。俺にも分からんよ」
浮竹の言葉は、どこまでも穏やかで――寂しい。
海燕は文机を覗き込んで、また何かを言っている。浮竹もよく知ったもので、絶妙のころあいで、身体をずらしている。
それはまるで、在りし日を何度も繰り返しているようで。
「最初に来た時には、もっと本物みたいで、心臓が止まるほど驚いたよ」
「……毎日?」
「いいや、時々。でもこの時間。だから夜は出かけない。ここにいたいんだ」
海燕の手が、浮竹の額に触れる。
生前の彼は、こうやって浮竹の熱を確かめていたのだ。
もう片方の手に――触れることの叶わぬ手に、浮竹は己の手を重ねる。
「だってもう、こんなにも透き通ってるじゃないか」
それは、終わりが近いことへの証拠。
海燕の手が額から離れた。
その日の浮竹は熱がなかったのか、安心した顔で笑う。
軽く一礼して、海燕が立ち上がる。
戸に向かって歩いて行くその姿が、一度振り返った。
そして。ひとこと。
「――――」
その言葉が京楽の耳にも届いた。
それが戯れに発した言葉であっても、他人が聞いてよい言葉ではなかった。
大切なひとことだったはずだ。
この場に自分は居てはいけなかった。
何故、友人はこの場に自分を招きいれたのだろう。
問いたかったわけではないが、京楽は視線を浮竹に戻した。
涙が、真っ白な頬を伝って、落ちた。
その姿に、涙に京楽は衝撃を受けた。
「見るな」
見ないでくれ。と浮竹は背を向ける。
彼は浮竹が全幅の信頼をよせる部下だった。
自分が知るのは、たったそれだけだ。
けれど。
ふたりの間には、ふたりしか知らないあまたの言葉が、あまたの想いがある。
やさしいいたわりの言葉も、その言葉ににじむ想いも。
浮竹のなかにはきっと深く降り積もっていて。
慌てて涙を拭う後姿を、痛ましいと思うのは容易かった。
でも浮竹はそれを望まないし、友人として彼の矜持を守りたかった。
「――そろそろ、どう?今日はとびきりいいお酒なんだよね」
落ち着いただろう背に、京楽は声をかける。
「ああ、勿論呑むさ」
来てくれてありがとう。
何時もの笑顔で浮竹が振り返る。
擦った目が、少し赤かった。